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根津嘉一郎と根津記念館

ページID:0002033 更新日:2023年12月11日更新 印刷ページ表示

根津嘉一郎について

 根津嘉一郎

 根津嘉一郎(初代)は、万延元年(1860)6月15日甲斐国山梨郡正徳寺村(現山梨県山梨市)の農家に生まれます。17歳で東山梨郡役所の書記となり、29歳のときに村会議員に当選して以降、県会議員(31歳)、​村長(33歳)、衆議院議員(44h歳)を歴任するなど政治家としても活躍します。

 36歳のとき、兄一秀の病気が回復したため、実家の家督を一秀に譲り、明治30年(1897)分家して東京に移ります。東京では同じ山梨県出身ですでに東京・横浜の実業界で活躍していた若尾逸平や雨宮敬次郎と交流し、のちに甲州財閥と呼ばれる山梨県出身者による資本連合に加わり、鉄道事業と電力事業を中心とした投資や買収を行います。当時の甲州財閥や山梨県内の株主層が企業の経営体質よりも株式保有による配当収入や売却利益を重視する傾向が強かったのに対し、嘉一郎は積極的に経営に参画してその建て直しを図りました。

 明治38年(1905)には東武鉄道の社長に就任し、経営を再建します。生涯を通じて創設や経営参画した会社は200数十社にのぼり、その中心は20余の鉄道会社の経営でした。鉄道界の重鎮であったことから「鉄道王」と呼ばれています。

 「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、水害や火災の罹災者へ寄附したり郷里の笛吹川に橋を建設して寄附したりするなど各方面へ寄附を行いました。特に教育文化振興への貢献は多大で、東京の旧制武蔵高等学校の創立、山梨県では初の県立図書館、郷里平等小学校の校舎(鉄筋コンクリート3階建)や敷地、県高等工業学校の敷地などを寄附しています。山梨県下の全小学校へ200台にものぼるピアノや人体模型、顕微鏡、ミシンを寄附したことはよく知られており、ピアノは「根津ピアノ」と呼ばれました。

 美術品の収集家や茶人としても知られ、嘉一郎の没後、東京青山の自邸に「根津美術館」が設立されました。
 山梨市名誉市民。

 

根津記念館について

 根津記念館は「鉄道王」と呼ばれた実業家、根津嘉一郎の実家である根津家の住宅や屋敷地を保存、活用する施設です。

 この屋敷は、嘉一郎関与の元、甥の根津啓吉により、昭和7年から10年にかけて整備されました。近代数寄者としても名高い嘉一郎の故郷での「迎賓館」、大地主根津家の「地主経営の場」、「居住空間」としての機能を併せ持っていたと考えられ、本格的な近代和風建築の建物と空間を備えています。平成15年、根津家の後継者根津榮三郎様とそのご家族から寄贈を受けた山梨市が、およそ5年の歳月をかけ整備事業を進め、平成20年10月開館しました。

 敷地約6,700平方メートルの中には、国の登録有形文化財である長屋門、旧主屋、土蔵など昭和初期の建造物、設計図により復原した青山荘と茶室が配され、大地主根津家の壮大な屋敷構えをご覧いただけます。そして富士山を借景にした庭には、付近の笛吹川で見られる丸みのある川石が多用された飛び石や池、大磯の別荘から牛に引かせて運んだ黒松が独特の雰囲気を作り出しており、嘉一郎晩年期の作庭感を反映しています。山野草や広葉樹なども多く、四季折々の表情を楽しむことができます。

 また、展示棟では嘉一郎の生涯を紹介した常設展と、時期により様々な企画展を開催しております。

 故郷山梨の風景や和風の意匠を好んだ嘉一郎晩年期の建築感や作庭感を、実物をご覧になりながらゆっくりとご体感ください。


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