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本陣屋は、延享4年(1747)当地におかれ、以後明治3年までの間、田安領統治の中心となりました。
現在、屋敷跡の西側の一部に堀が残り、北東隅の石積の上には守護神の水上稲荷社がまつられています。
領主田安宗武は江戸幕府8代将軍徳川吉宗の二男で、甲斐では山梨郡28か村、八代郡35か村、計63か村を領し、当初の石高は3万4千石でした。
また、田安領統治を巡っては、「太枡騒動」という事件も起きています。
【太枡騒動(ふとますそうどう)】
1792年(寛政4年)~1793年(寛政5年)にかけて、山梨の田安領で起きた、農民一揆的な越訴事件。
代官・横田平五郎に代わって赴任した新任代官・山口彦三郎が「太枡」(新しい枡)を導入して年貢取り立てを強化したことに対し、
領民が不当を訴えて江戸(寺社奉行)へ直訴した。
百姓側が組織的に代表を選び訴状を提出した点で、江戸時代における地方農民抵抗の重要な事例である。
【発生背景】
寛政4年に、田安領の代官であった横田平五郎が不正で罷免され、新任代官・山口彦三郎が赴任した。山口は新枡(太枡)を導入して
年貢取り立てを強化し、実質的な増税や収奪が行われたと受けとめられ、領主側と領民の間に緊張が高まった。
同年、郡奉行名義の触書が出され、領内では集団訴願が発生し、田安家側役人が対応に苦慮する記録が残る。
【越訴・行動の経過】
寛政4年1月、領民は江戸表(江戸)への越訴(直訴)を決意。1月26日に一町田中村の陣屋へ押しかけ、江戸出願の実行を通告した。
代官・山口は江戸出訴を百姓一揆の禁止令に反する行為であるとし、郡奉行を通じて越訴が実行された際には厳しい吟味を行う旨の触書を出した。
その年の年貢皆済期が迫ると、山梨・八代両郡の有力百姓らが中心となって越訴の計画を進め、最終的に7人の指導者がまとまり行動を主導した。
寛政4年12月27日には、田安領63か村中54か村の惣代が江戸へ出府し、さらに21人の出願実行者が選出された。
【訴状の提出とその後】
江戸到着後、寺社奉行・立花種周に対して、太枡導入による収奪強化を厳しく糾弾し、従来の仕法への回帰を求める10か条の訴状を提出した。
しかし、百姓の強訴は禁じられていたため、騒動の首謀者とされた者たちが摘発、捕縛され、田安家に引き渡された。
寛政5年8月24日に勘定奉行の裁許が下り、獄門、死罪、遠島等の処罰が決定された。一部の被拘禁者は裁許を待たずに牢内で病死した。
国元や江戸に残っていた惣代(代表者)らも召還され処罰された。