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中屋集落に所在する大瀧山上求寺奥の院は、真智集落の北方倉科間分山麓にありましたが、天正10年(1582)武田家滅亡のとき織田の兵火に災い焼失しました。現在は不動堂だけが残っています。附近には、男滝、女滝、袖切坂、蚕種石などの地名があります。
本尊の不動明王は寄木造、童子像は一木造で、頭部は耳前で前後に二材を矧ぎ、童子像はほぼ全身を一材から彫出し、面部を矧いで玉眼を篏入したと思われます。面部は欠失しています。火災の光背を背負って立つ、通形の不動明王像です。上半身を強く左にひねる姿は、信玄の願主とする恵林寺武田不動尊像にみられる姿です。
制作年代は、江戸時代で、2月28日の例祭は、「お不動さん」の名で親しまれています。